“うつし世はゆめ よるの夢こそまこと”。「胡蝶の夢」的白日夢
『赤目四十八瀧心中未遂』(2003年)。
いやータイトルから浪漫主義的というか、耽美主義的というか、大正デカダンスな匂いがプンプン。さすが、映画界のフィクサーとして、鈴木清順のデカダン三部作『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)、『陽炎座』(1981年)、『夢二』(1991年)、坂東玉三郎の『外科室』(1992年)をプロデュースしてきた、荒戸源次郎の監督作品なり。
ものすごく乱暴に言ってしまえばコレ、男が女に「奪われる」映画である。有名大学を卒業しながら、堕ちるところまで堕ちてしまった生島与一(大西滝次郎)は、古いアパートの一室で、臓物を捌き、串にモツを刺していくだけの毎日を過ごしている。
ある日同じアパートに住む妖艶な女性・綾(寺島しのぶ)に“奪われる”ように肉体関係を結び、ありったけの貯金と銀行通帳を“奪われ”、勢子(大楠道代)にあげるための香り袋を“奪われ”、彼女と心中するつもりが最後になって「私生きてみるわ」と宣言されてしまい、甘美な死への幻想すらも“奪われ”てしまう。
綾の「この世の外へ」という一言に誘われたものの、結局外の世界へ飛び出すことは叶わず、土管のガマガエルのごとく内界に留まるという結末。
この映画では、何一つドラマティックな高揚は生まれない。ただ、ミニマルな反復があるのみ。いや、むしろその反復性にこそ、『赤目四十八瀧心中未遂』というフィルムの神髄がある。
例えば死への逃避行を描くにあたって、木漏れ日のなかを歩く寺島しのぶを手持ちカメラで後方から捉えるなど、荒戸源次郎は幽玄のリズムの創出に余念がない。
しかしこの映画が最も奇妙なフォルムを露出するのは、上手から下手へ、そして次のカットでは下手から上手へと、二人が赤目四十八瀧の参道を歩くだけの反復ショットだ。
反復。反復。反復。その一定のリズムとループ感が、観客を出口のないラビリンスに誘う。実際、夢うつつの世界を描出するにあたって、ファーストカットとラストカットに蝶を採りに行く少年を登場させているんだが、そのサンドイッチ的構造は完全に荘子の「胡蝶の夢」だ。
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった
喜々として胡蝶になりきっていた自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた
荘周であることは全く念頭になかった
はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないかところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、
自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、
いずれが本当か私にはわからない荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ
しかし主体としての自分には変わりは無く、
これが物の変化というものである
此処はこの世の内なのか、此の世の外なのか。いや、そもそも此処は現実なのか、夢の世界なのか。『赤目四十八瀧心中未遂』は、愛する者と一緒に死を迎えるという甘美な「心中」を剥奪し、ひたすらミニマルな反復描写を施すことによって、摩訶不思議な非現実感が生成されている。
お隣さんに、内田ロケンロール裕也がいようが、『オー!マイキー』を地でいくようなアッパラパー夫婦がいようが、なんだってオーケー。かの江戸川乱歩センセイもおっしゃってるではないか。
「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」と…。
- 製作年/2003年
- 製作国/日本
- 上映時間/159分
- 監督/荒戸源次郎
- 製作/河津秋敏、石川富康、村山治、橘秀仁
- プロデューサー/村岡伸一郎
- 原作/車谷長吉
- 脚本/鈴木棟也
- 美術/金勝浩一
- 撮影/笠松則通
- 音楽/千野秀一
- 照明/石田健司
- 大西滝次郎
- 寺島しのぶ
- 大楠道代
- 内田裕也
- 赤井英和
- 麿赤兒
- 新井浩文
- 大楽源太
- 大森南朋
- 内田春菊
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