ホームドラマと言っても、『渡る世間は鬼ばかり』のような話ではない(当たり前だ)。親子の愛、兄弟の絆、夫婦の葛藤。映画の核となるモチーフは全て「家族」というキーワードに帰結する。
アル・パチーノ演じるマイケルはマフィア稼業を嫌っていたが、父が撃たれたことから家族を守るために銃を持ち、自らも血と暴力に酔いしれていくのである。そんな家族に関する映画を、フランシス・フォード・コッポラは文字通り一家総出で撮り切ってしまった。
コニー役を演じるタリア・シャイアは彼の実妹だし、音楽を担当したカーマイン・コッポラは実父だし、クライマックスの洗礼シーンに登場する赤ん坊は、実娘のソフィア・コッポラだ(パート3で彼女がアル・パチーノの娘役で登場するとは、当時誰が想像しただろう?)。
ほとんど監督の職権乱用のような気もしないでもないが、イタリア系アメリカ人であるコッポラは、コルレオーネ・ファミリーの物語を自らの資質と血でもって描いてみせたのである。
全編を彩る悲劇色の強いストーリー、ニーノ・ロータの哀愁を帯びた音楽、ゴードン・ウィリスによる琥珀色のトーンに満ちた絵画的映像。オペラのような語り口には、ヤクザ映画らしからぬ “品”すら感じられる。
過去において、マーロン・ブランドーがアルマーニを見事に着こなしているような、品格の感じられるヤクザ映画はなかった。
ソニーが銃弾を雨あられと浴びて殺させるくだりは、『俺たちに明日はない』を彷佛とさせる暴力的なシーンだが、実は『ゴッドファーザー』は想像以上に暴力シーンが少ない。
スタジオのお偉方は「アクションシーンを増やせ」と矢の催促をしたそうだが、コッポラが映画の比重をどこに置いて物語を設計していたかがよく分かる。
’40年代のニューヨークを舞台にした原作に反して、時代設定を’70年代に移し替えようとした製作サイドに、真っ向からコッポラは異を唱えたらしい。
ヒッピーやドラッグが蔓延する作品では、原作の『ゴッドファーザー』の持つ格調高さは描けない。コッポラが終始こだわったのは、映画のクラシックな手触り。反時代的なアメリカン・ニュー・シネマが隆盛を誇るなか、コッポラが選択したのは極めて古典的な撮影スタイルだった。
例えばマイケルが、レストランでマフィアと汚職警官を暗殺する有名なシーンにおいても、奇抜なショットやカメラワークは一切使われていない。徹底的なリアリズムと、古典的なモンタージュのみ。
しかしそれゆえに緊張感が生成され、作品に独特の格調高さを与える。マイケルの気持ちの高揚と、電車がが高架鉄橋を通り過ぎる音がシンクロするのも、クラシックな演出法だ。
このような古典的な手法はオープニングでも顕著だ。マーロン・ブランドーに「裁き」を嘆願する葬儀屋のクローズアップから、カメラは序々にひいていく(当時これほどスローにカメラを引いていくのは困難だったらしい)。
色調は暗く、裏社会の闇を感じさせる。書斎での殺人の談合は、陰影の強烈なコントラストで強調されるのだ。
その一方で、屋外では陽光が燦々と輝き、壮大な結婚式の喧騒に満ちている。まさに陰と陽。黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』からインスパイアを受けたというこのシーンで、コルレオーネ家に光と闇の部分があることをコッポラは丁寧に描きだすのである。
インディペンデント系の映画の台頭により、古典的なハリウッド映画スタイルが見直されようとしていた時期に、かくも古典的な映画が成功したのは興味深い。
『ゴッドファーザー』は、間違いなくアメリカ映画の偉大な遺産のひとつである。
- 原題/The Godfather
- 製作年/1972年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/175分
- 監督/フランシス・フォード・コッポラ
- 脚本/フランシス・フォード・コッポラ、マリオ・プーゾ
- 原作/マリオ・プーゾ
- 製作/アルバート・S・ラディ
- 撮影/ゴードン・ウィリス
- 音楽/ニーノ・ロータ
- 特殊メイク/ディック・スミス
- 美術/ウォーレン・クレイマー
- 編集/ウィリアム・レイノルズ、ピーター・ジナー
- 衣裳/アンナ・ヒル・ジョンストン
- マーロン・ブランドー
- アル・パチーノ
- ロバート・デュバル
- ジェームズ・カーン
- リチャード・カステラーノ
- スターリング・ヘイドン
- ダイアン・キートン
- リチャード・コンテ
- ジョン・カザール
- アル・レティエリ
- ジャンニ・ルッソ
- モーガナ・キング
- シモネッタ・ステファネッリ
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